積もり積もって先延ばし

23歳男子、ケッタイなことを考えようにも頭が追いつかない。

僕と世間とは、何が違うのか

 エントリーシートを睨んだまま數十分、僕はパソコンのキーボードの上に手をおいて考え込んでいた。400字以内、という文字が横長の記入欄ごとにしつこく忠告を重ねる。

 そうか、僕が書きたいのはこんなことではないのだ。志望動機とか、会社に入ってからやりたいこととか、学生時代頑張ったこととか、まあそんなのは現実の話のようでいて架空の世界の物語だし、いちいち他人様に僕のプライベートを晒すこともない。媚を売るのはまあまあ得意な方だけど、高いプライドはあんまり頭を下げすぎると体調が悪くなるようにできているのだ。

 というわけで、僕の脳みそは、しばらくの間身を休め、心を落ち着かせるための逃避場所を探しだした。人間、疲れていたら時間がもったいないからね。楽にできることは楽に、楽にできないことは手短に。

 

 むろん、就職活動に真面目に取り組める人間はいる。いやいやながらも、しなければならないタスクとなれば要領よくこなしてしまう人間もいる。僕のように面倒だなあ、仕事くらい真面目にやるから程々の会社に行かせてくれよ、と仰向けに寝そべって天井の模様をゲシュタルト崩壊するまで見つめている奴もいると思う(いや、このタイプの人間こそ多数派であってほしいのだが)。

 でもそういう奴らの大半は一応、就活をしてみるのだ。一社であれ百社であれ、一応やっぱり、食い扶持は必要だし、かといって赤いスポーツカーをガレージに停めておきたいわけではないけど、まあ週末にちょっと出かけて美味いもの食うくらいの生活はしたいなあと思っているから(たぶん)、選考を受けてみることにはうけてみるのだ。これから数十年バイトだけするような覚悟はないから、まあ、ペコペコするのも三ヶ月くらいだし、とりあえずリクスーに袖を通してみる。

 なんだ、受験と同じじゃんと、気づくと、意外とやる気は出てくる。だって、つまらなかったらやめればいいし、やっぱり就活失敗してもすぐ死ぬわけじゃないし。僕はこれまで至極幸福な環境にいたから、こういう能天気で楽観的な考えがぽんと出てくるのだけれども。とにかく、就活はずっと敬遠してきたけれど、いざ春休みともなれば重い腰を少しは上げてみようという気にはなったのだ。

 

 さて、再び冒頭に戻る。僕はエントリーシートの記入欄を目の前にしていた。過去形だ。

 僕はさっきまでエントリーシートの記入欄を目の前にしていたのだ。だって、つまらないことは続けていられないのが、ゆとり世代アイデンティティのはずだ。勉強なんて「くそおもんないもの」に中学生の間、僕は全くと言っていいほど取り組まなかったけど、高校の間、勉強はそれなりに楽しかったから、少し頑張った。単純なのだ。つまらないからやらない。楽しいからやる。それだけだ。

 ひょっとすると、というかかなりの高確率でこの「好きなことだけやってりゃいいじゃん理論」にはかなりの無自覚と高慢と偏見が含まれている。だから、僕はこの理論を迂闊に就活には転用しない。高校生の時は、まあ、まだ親の庇護下にあって許される精神性と社会的地位であったからともかく、もはや僕は成人だし、分別があるというよりも分別がついていなければならないから。世の中なにも、好きなことだけやっていられる人間は限られているのだ。経済的理由かもしれないし、生物学的理由かもしれないし、宗教的理由かもしれないし、社会的理由かもしれないし、ほかのもっと、重箱の隅をつつくような理由(あるいは、単に見過ごされている)かもしれないけど。とにかく、キラキラ輝くにはそれなりの燃料を自分で燃やすか、太陽みたいに自分という惑星を照らしだしてくれる優れた仲間がいなければならないのだ。好きなことをやっていられる環境が整っていることを当然と思っているアクティヴ人間たち、それは空気のようにどこにても漂っているものではない(つまり、大気圏外で呼吸をすることは、生身の人間には非常に難しいことなのだ)ということをわかっているのか。

 とまあ、ここまで書いてきたことが全部正しいわけではもちろんない。というか僻みも多分に入っている。なぜならば僕は何を隠そう「好きなことだけやっていられる環境にいるわりに何もしていない」タイプの人間だからである。

 この点について胸を張るのは非常によろしくない。多分読んでいるあなたもイラっときたのではないだろうか。僕だって金持ちが金持ちであることを自慢してきたら思いっきり膝カックンしてやりたくなる。使わないなら寄越せ、と言いたくはなる。

 でも、そうはいっても、人間誰も彼もそんなに立派ではないのだ。僕は割合に無害な方だけど、そのかわり、生産性(!)はたぶん低い。こういう人間はとかく傍観者になりがちで、毒も薬も振りまかず、よく磨かれた窓ガラスのごとく外の世界を映し出してみる。最も、断熱効果も外気の遮断もできないけど。あるいはまた、自由意志の浪費の点ではもったいないが、市場を活性化させる点ではこうした没個性的な行動は社会に貢献しているのかもしれない。

 善人、善人になりたい。僕は自分が70億人いれば戦争など起ころうはずもないと本気で思っているが、それは誰もが優越感を感じて成長するという矛盾を包摂した環境でしか達成されないので、不可能である。すばらしい環境で育った人間は、自らの排他性を自省の眼差しの盲点へ、無意識のうちに隠している。意識するとしまいとにかかわらず、僕は生まれつきの「楽観エリート」であるし、愚かな振る舞いは、我慢を知らない人間がするものだと本気で信じてきたし、大海を知ればいちもくさんに井戸に駆け込むのだ。

 僕は強者である。ある指標に照らしてそう述べるのではなく、自己認識として、僕は自分が、総合的に強者だと思っている。

 

 僕は自分が強者だと思っているが、しかし一歩社会へ出てみれば、慣行どおりに頭を下げて、泰然としてプライドを捨てられることが、自己意識を慰める一番の方法だと日々自らを励ましているのだ。

 

 

<この記事の一曲>

 

youtu.be

こういうPVはやめてほしい(褒)。

最近見た映画 <20181121>

お題「最近見た映画」

 

ドゥルルルル。お題。最近見た映画。

 

 

 

四月の永い夢

 

 しばらく海外に行っていた僕ですが、帰国後に初めて見た映画が中川龍太郎監督の『四月の永い夢』という邦画でした。新宿武蔵野館へ足を運び、劇場内の人影はまばらだったけど、一人で見に来ている男がちらほら。『マンマ・ミーア』とは客層が違う。

 主演は朝倉あきさんでーーと、映画の月並みな解説を初めても良いのだが、僕が今更そんな紹介を素人なりにしたところでさして需要はないでしょう。そ言うわけで、あっちへいったりこっちへいったい、思いつくままに書いてみる。

 

 とはいえ、最低限のあらすじは言っておく。3年前に恋人を亡くし、未だ失意の中にいるヒロインの元音楽教師がゆっくりと立ち上がろうとする(立ちあがれたかは、まあ、観て欲しいところである)過程が描かれている。

 テーマというか状況設定に殊更注目する点はないでしょう。恋人を亡くしたり、そこから人の温もりに触れてゆっくりと自信を束縛から解き放っていくのは普遍的なモチーフであり、そこに様々な語りを載せやすい一つの流れを持っている。人の死から何かを語るよりも、何かを語る際に人の死が絡んでいた方が説得力を持つと言う、そういうアクチュアルな手法の問題であって、この作品自体が死から始まるわけではないと思う。ちなみに、死にあまり数的意味はないでしょう。ヒューマンドラマの一人と、戦争映画の一人にあまりにも明確な違いがもたらされてしまうのは、もっと質的な相違がある。

 

 ところで、例えば、僕はこの主人公滝本初海よりもよっぽど幸福な世界の住人で、恋人を亡くしたことはなく、実家で不便のない暮らしをしている。日常性の渦巻く作品(映画であれ、漫画であれ、小説であれ)を鑑賞するたび、こうした自分自身の境遇と作品世界のそれとを行ったり来たりしながら進むタイプなのだが、今回の作品は圧倒的な悲劇や喜劇ではなく、自分と対置することも同化させることもできないような場所にあった。批評というより単なる感想になってしまうが、こうした自分との「中途半端な距離にある作品」といのは意外と貴重で、ここに、完全なエンターテインメント化せず「自らが入り込む余地のある映画」が生まれている気がする。主人公の葛藤やあるいはもやもや、言語化することの能わぬ感情それそのもののあり方が、曖昧なものとして観客自身の抱く曖昧さへと直接に結びつく。具体的描写だけを見ているだけのフィルムの映像から、我々の、普段言語化されず内面の葛藤の域を出て表彰されることのない部分をそっと撫で付ける。もはやメッセージは、明確なものである必要なないのではないか。

 僕と初海の境遇は似通ったものとは言えないが(そもそも性別が違う時点で受ける社会圧力も思考形態もちがう)、そこに何か通底するものを見出すとしたら、それはその曖昧なものの存在、何かを抱えている自分を知っている、という自覚なのだろう。

 

 

一記事につきひとつ、好きな音楽を貼っていきます。

youtu.be

 

Pomme - On brûlera | Sofar Paris

 

さて、夜が更けていく。

 

 

はじめに

お題「冬支度」

 

初めまして。ぺちょうりんです。

 

 ブログというものが当たり前のコンテンツとなってから随分たちました。私は1994年生まれで、インターネットの普及は2000年代前半から爆発的に加速したという認識がありますので、物心ついた頃には既に情報氾濫の世界にいたわけです。

 

 中古のパソコンを与えられたのが小学3年生くらいの時だったと思いますが、その頃は既にブラインドタッチでローマ字入力をしていました。たぶん小学1年生の頃には既にキーボードを自在に操っていたと思いますが、とにかく、パソコンで何かを入力するということは最低限のリテラシーであり、鉛筆をもって書くことよりも身体的な動作として内化していきました。

 今でも、自分の思考を言語化する際には手で文字を書くよりもキーボードで打った方がスムーズに進みます。対応する子音と母音のキーをタッチするだけなので、漢字を思い出したり、文字の大きさ・読みやすさを考えながら書かなければならない手書きよりも、ずっと抵抗が少ないからだとおもいます。また、読めるけど書けない漢字、という日本語最大(といってもよかろう)問題を容易に克服できることも関連があるかもしれません。

 

 ブログを開設した動機は、1)書くという行為の継続、2)他人に向けて表現する方法の獲得の二つが主なものとなります。

 世の中には面白いことしか存在しないのですが、それが伝わるにはそれなりの様式に則って発信される必要があります。所謂「言語」だけでなく、美的様式、背後に見えるイデオロギー、文章そのものの(メタ的な)扱われ方等、関連する要素はそれこそ山のようにありますが、そうした種々の要素が共有されていくことによって伝達の輪が広がっていくのです。この共有は必ずしも共感を意味しませんが(特定の意見に対する賛否という点でも、その様式や言語自体を理解できる/できないという点でも)、意味不明だと思われた時点で、多くの読者がその文章から離れていってしまうことは明らかです。逆に、全く相いれない内容であっても何かしらの要因によってその文章を共有してくれさえすれば、それは一つの表現として成功なのではないでしょうか。

 

 そういうわけで、これまで自己満足的な文章は沢山書き連ねてきたものの、他人に伝えるということを軽視してきた私が、どうにか読者を獲得しようと奮闘する様をご覧いただければと思います。

 

 当面ははてなブログの「お題スロット」の力を拝借して、思うがままに記事を作っていきたいと思います。

 更新頻度はまだ特に決めていませんが、いくつか記事を書いて様子を見てみたいと思います。

 

それでは。